毒の匂いがして、私は顔をしかめた。
多分それに気づいているだろう阿紫花は、みてむぬふりを決めこむツモリなのだろう、
月も出ていない泥をまぶしたような空を見上げて、鼻唄など歌っている。
カラン、と響く阿紫花の履物の音。

石畳から湯煙が巻きあがる様にも見えた。

それは単なる錯覚なんだろうと思って、すぐにそれから目をそらした。

見るもの全てが別世界の不思議な場所に阿紫花は私を案内した。
その理由が何故なのか、知らない。そもそも知りたくもない。何故なら興味がない。
恐らくは。

石畳の向こうに続くのは、煙がまき上がり続けている河原。
石畳はすぐに途切れ、単なる河原を歩かされる羽目になる。
阿紫花は其処をさも楽しそうにたどって行く。
日本人、と言うものの習性なのか、それとも阿紫花の習性なのか。
そもそも何故私がそれに付きあってこんな所を歩いているのだろうか。

「アンタの見たとのない世界、見せてあげやしょう。」

したり顔で阿紫花がそう言った。
興味はない。
そう、興味はなかった。
ただ、必要があるように思えたから私は付いて行くことにした。
興味とは、違うからな。本当だぞ。

「面白いでしょ、これお湯の川なんですぜ?」
「別段不思議な物でもないじゃぁないか」
「あれ?そうですかい?海外にもこう言うとこってあるんですか?」

拍子抜けした顔で立ち止まって私を覗きこむな。
いいから、前を見て歩け。
君がいちいち私を伺うような態度を取ると、私が気分が悪い。
そもそも、私になんの期待をして覗きこむんだ。
覗き込むと言う行為は、何かを探ろうとする行為だろう。という事は私は何かを探られていると言うことだろう。
探られて気分のイイ人間がいるものか。

「あれ?ジョージさん、人間でしたっけ?」

…覗きこむなって言っているのに…

「だってアンタ下向いて歩いてるんですもん、顔見て話すのは礼儀でしょ。」
「私に日本の礼儀を説いたところで無意味だ。」
「そう言ってる間に顔上げたらイイじゃねェですか…」

あんまり阿紫花がそう言うので、顔を上げてやったら、石につまづいた。

「…慣れない道ですから足元にお気をつけて」
…だから!さっきから気をつけていたのだろう!それを君がだな!
「おおっと、浅い川ですが滑るんでお気をつけて」


…滑ったのを見られていたようだ。
これ以上面倒事を増やすのも面倒なので
私はおとなしく足元だけを見て歩くことにした。
阿紫花が余計なことを言わなければ面倒はなかったのだろうに。
全く…
石がゴロゴロとしている川をやっと抜けると、簡単ではあるが石畳調に舗装された道が現れた。
観光地なら、始めからこういう風に作ってあればいいんだ。
ぼやきながら石畳に足をつけて、ほっとして降りかえると、河原の脇を通る様に舗装された道が続いていた。

「いやー、道はあるんですが、こっち通った方が風流でしょ?」
「……」
「怒ってやす?」
「怒ってなどいない!」

私の額に血管が浮いていたかどうかは鏡を見ていないのでわからない。
だから、怒っていないと私は私自身をなだめた。
…なだめるということは、怒っていたのか?
……い…硫黄臭いな…

カランコロンと言う音に手をひかれて、たどりついたのはうっそうと茂る森の入り口。

湿った生ぬるい風にのって、毒の匂いがした。

「ココはね、人間が人間であることを証明してくれる場所なんですぜ。」
「…なに?」
「アタシは丸腰、人形も置いてきやした。アンタの武装も宿に置いてきたでしょ」
「…不本意だったがな」
「まぁまぁ。ココで必要なのは中身だけですから。」
「中身?」
「そ、裸の中身。身体と肌と髪と、後はそうですね、目と耳と口と…」
「服と装飾品以外と言った方が早いだろう」
「あー、そうそう、そんな感じで。要するにですねー」

やたらめったらと君が楽しそうな理由はなんなんだ。
君が楽しそうだと、私が不安になるのは何故なんだろう。
君が言葉を止めて後を続けないので、仕方なく急かす。

「要するに?」
「風呂入りやしょうよ」

そう言って君が指差した先には森しか見えなくて。

「ほら、アレですよ」

遠く指差す指の先をたどって見ても…
小さな看板が落ちているのが見えたけれども。
私の視力でも微かに見える程度の看板。
【関係者以外立ち入り禁止】

「あ、そっちじゃねぇですよ」
「…どっちだ」
「こっちですってば」
「…さっきと指している方向が違う様だが。」
「間違いは誰にでもあるモンです」

茶化されているのか、本当なのか…はぁ。
いや、いかん。ココで苛立ってはいけない。
何故なら、多分それは阿紫花の思うツボだからだ。

私は何故、阿紫花の思うツボになりたくないのだろう?

河原が滝のようになっている場所を抜けて。
その先の小道にはいると、大きな柵のような物が見えた。
あの先に、阿紫花が言う、人間であることの証明があるらしい。



人間であることの証明?



夜中の人一人いない暗がりに渡された湿った板。
言われるがままにそれを裸足で踏む。
月も出ていないこんな夜に。
明かり一つないこんな場所に。
何があるというのだ。
人間は明かりを必要として熱を欲してそれにすがっていきる弱い物だろうに。
恐る恐ると言う形容詞が似合う動きをしている阿紫花の、その腰に手をかけた。

「ちょ…そう言うツモリできたんじゃぁ…」
「私もそう言うツモリはない」
「じゃあ、何でそんなトコ触るんですか」

そんなに私を睨もうとするな。
そもそも私の顔はそんな方向にはないぞ。

「見えないのだろう?周りが」
「そりゃアンタ、こんな暗がりですからねェ」

そうは言うが阿紫花。私には見えるんだよ。

「ジョージさン、見えてるんですかい?」
「つま先のすぐそこに湯船がある、気をつけろ」
「へ、へぇ…うわ、本当でやんの」

ちゃぷん、と言う音がして。
それを確認してから、私も同じように身体を沈めてみた。

「はー、やっぱココ好きなんですよーでも今日みてェな日にはアブナイですねェ」
「そうか?明るいじゃないか」
「真っ暗じゃねェですか」
「そうか?」
「そうですよ。今、声が聞こえるからジョージさンが
 そっちにいるんだなって分かりますけどね、黙ってたら分かりませんよ」

そう言うなら、黙ってみようかとも思う。
そうしたら、阿紫花はどこに向かって私を呼ぶんだろうか、なんて。
当て外れの方向に向かって呼ばれたらそれはそれで滑稽かもしれんな…
阿紫花がか?
いや、恐らく私も滑稽になるだろうからやめておこう。

「ジョージさン?」

そんなことを考えていたら、当て外れの方向に向かって阿紫花が私を呼んだ。

「こっちだ」

滑稽だと感じる前に、気を紛らわしてしまえば…多少は滑稽さが薄れるかも。
たあいのない会話を続ける。
特に内容のないことを阿紫花が言う。
私はそれに対して皮肉を返す。
君は暗闇を見ている。
私は空を見上げた。
雲がうっすらと湿っている。
どこからか飛んできた光がそれに反射していると言うのに、君にはそれが見えないと言うのか?
雲に反射した光が、木々を、湯を、私達を照らし出しているじゃないか。

不意に優しく吹いた風に、毒の匂いに気づかされ。
硫黄に錆び付いていた立ち入り禁止の看板を思い出す。

ギシリ、と腕が鳴った。

縛り忘れた私の髪が、湯の中で揺れている。

その先から私が溶けて行くような…感触に…捕らわれて。


 硫酸を飲んで死んだ男が呟いた
 飲みつづけた硫黄に腐食した身体を 女が見せた
 毒をくらわば…
 アナタを殺す為に硫黄を飲ませた
 そのアナタは自ら硫酸を飲んで死んだ
 そんな記憶が、甦るのは
 ありもしない過去からの中傷

つるりと腕を掴まれて
腐食した匂い
引き戻されるのか連れていかれるのか

「ジョージさン、戻ってきなせェ」
「…アシハナ…何故私がココにいると分かった」

掴まれた腕に腐食の匂いをかいで。
連れていかれるのか、それとも連れ戻されたのか。
人間である証拠なんて、どこにもない。
そもそも人間なんて、定義がない。
君が人間だなんて、それは私の思い込みだったのではないかと。
阿紫花が腐食する匂いをかいで、一瞬そんな気になった。

「だから、戻ってきなせぇって」
「ココにいるじゃないか」
「いませんよ」
「どうしてそう思う」
「戻って、きなせぇって」

明るすぎて、どこにもどったらイイのか、わからないんだよ。

爪を立てられても、引っ掻かれても、抓られても噛みつかれても。

「戻って、きたいとは思いませんか」
「私は元からココにいる」
「違います」
「何が違うんだ?」
「戻ってこれなければアンタ、溶けちまいますよ」

そう、私は溶け始めている、まるで硫酸の中に漂うかのように。
そのまま溶けることが私なのではないかと…これは錯覚なのか、それとも思いこみか?

腕に残った引っ掻き傷が、すぅと消えて。
舌打ちの音が聞こえて、爪の後が背中にたどられてしかしそれも消えて、また舌打ちが聞こえた。

「戻って、きなせぇってば…」
「これが人間であることの証明か?」
「無理ですか……そんじゃこれでも戻りませんか」

内腿に掻かれた傷が、そのまま私のもっと内側へたどった瞬間。
勝手に身体が跳ねた。
…痛み、じゃ、ない。

「…アシハナ!」
「あら、お帰んなせぇ」
「…握ったまま言うな」
「ただいまくらい言ったらどうですか?」
「だから私はどこにも行って…ッ…おい!」

アシハナの指の感触。
これは連れ戻してなんかいない、
連れ去ろうとしているに違いない。
なにが、人間であることの証明だ。

首筋に這う柔らかい舌の感触は、湯が流れて身体を這う感触と似ていた。
そう、そして指の這う感触もそれと似ていたように思う。
身体を反らして見上げた空が、幾分暗く見えたのは、連れ去られる証拠であるかのようで。

「ア、シハナ…やめないか…」
「どーしてですか?」
「…暗くて…見えなくなりそうだ…」
「大丈夫です、アタシは見えてますから」

目を、閉じた。
私の指先が湯に触れていて、それが君の肌の温度と同じだったから、錯覚したのかもしれない。
抱いているのか、抱かれているのか、それがなんなのか、全て錯覚なのかもしれない。
戻らなくては…ならない。
何処へ?
今たどろうとしている道は、一体これは戻る道なのか、それとも行く道なのか?
呼吸は塞いだのか、塞がれたのか。
触れたのか、触れられたのか。
全てが曖昧になるのは、何故なのか。



見たことも、聞いた事もない時間と空間がそこにあった。



其処で聞いたのは、君の声と、柔らかく揺れる水の音。
そして紛れもない私の声。






「あー、ソコ滑りますよ…って」
「早く言え!」

石畳を通ってソコからわざと離れて河原の砂利の上。
バランスを崩した私を支えた君が苦笑い。

こんなに明るいのに、なんで見えないんですかねェ?

それは皮肉かアシハナ。

明るい雲の下で、暗闇に照らされて流れる水がぽうと光って見えた。
そんな夜の、
単なる錯覚。
単なる錯覚の
気の迷い話。