「入れよ」
そう言われて、大人しく部屋の扉をくぐる。
大きなマンションの一室。
居間の他にキッチン、バスルーム、部屋が二つあった。
その一つの部屋に通される。
畳敷きの和室。草の香りがする。
それと、甘いクスリの匂い。
「イイ部屋ですね…」
「ここは俺以外入れないようにしてた部屋だ」
「え?」
振り向こうとすると、肩を掴まれた。
拒否が手のひらから肩へ伝わってくる。
そのまま動かない。振り向くのをやめた俺に満足したのか、肩に手を回された。
無粋な抱擁のような。
その指が部屋の奥を指差す。
「俺がぶっ飛ぶための部屋だ」
理解している。
部屋の奥にあるのは蒸留器やら何やら、ランプと、そしてあのクスリと。
ここでぶっ飛べたら気持ちがイイだろうな。
井草の香りと狭い空間と果てしない広さを思わせる雰囲気。
不思議な部屋だ。
照明は一つしかない。奥の方にただ一つ。
障子張りの灯篭のようなものが橙色の光を放っている。
暖かそうな光。
それに照らされた俺の腕が温まるような気がした。
目線を落とす。照らされる俺の腕。
冷たくて暖かい。こんな光みたいに…俺は…
ギアッチョの息が耳元にかかる。今日もまたこの人に抱かれるのだろう。
寂しくなんか無い。もっと傷を開いてもっと死んでしまえばイイ。この俺の身体ごと。
事の発端。いつもどおりの始まり。
今日はちょっとだけ違っていた。
その始まりはこうだった。

雨上がりの歩道。
いつもどおりの時間に歩いていた(本当は走るツモリだった)
肌寒い空気の流れが心地イイ。
歩き(走ってるツモリ)ながら周りを見渡す。
ぬかるみを避けて、大通りのレンガ敷きに体重をかける。
立ち並ぶ木々。人工的に植えられた飾り用の木々。
湿った空気と白んだ空。
その空気をつんざく排気音。
振り向くと、いつもの枯草色のジャガーがいた。
大通りを白煙と共に流れるように走る。
俺が道路に歩いて出ると、
轢きたくて堪らないかのように
俺の膝元へジャガーが飛びこんできた。
相変わらずな運転だ。これで本当に跳ねられたら俺はどこまで吹っ飛ぶんだろう。
ギアッチョの顎が示す助手席に、何も言わずに乗りこむ。
動かない風の中で、冷えた身体に血の気が戻る。
ギアッチョの車は無音で走り始めた。
あれ?妙だ。何が?…そうか。
いつもの爆音が無い。いや、車の排気音じゃなくって。
耳をつんざくパンクの喧騒が無い。

車の中と同様。ギアッチョも、部屋も静かだった。
煽るような低い声は変わっていないが。
この声を聞くたびに俺はそれだけで犯される。
この人は知っててそれを掘り返す。
元々この人の傷に触れてしまったのは俺だ。だから。だからそれは俺の責任だ。
何もしないままでいられるなら。そんな生き方が出来たなら、楽だろうなと思う。
出来るわけ無い。
そんなの俺じゃない、どんなに傷ついても、
どんなに苦しんでも、どれだけ吐き気を覚えても。

「体を倒せ。新しいドラッグを試してみたい…」
ギアッチョの腕が俺から、つ、と離れた。
肩口が寂しくなる。
「…新しい?」
「対して強かねェ。もしかしたら効かねぇかもしれネェ。
 ……試しだ…嫌とは言わせんぞ」
どんな顔で言っているのだろうこの言葉を。
俺は言われるままに奥の敷物の上に腰を下ろした。
覆い被さるように俺にのしかかってくるいつもの重さ。
目が合うと、無表情だった。
これもいつもと同じ。
俺は捕食される。
採り込まれて消化されて。そしてこの人の餌になる。
俺がそうして餌になれるなら。消化される事が出来るなら。
俺にとってそれは…

役立たず

自分の顔に何度も問いかける。
俺は何が出来た?何を出来る?
くだらない、知識も力もない。足りない、まだ足りない。
だから誰も俺を欲しない。
今俺が必要とされるのは俺が作った架空の包容力だけ。
それに包まれて俺の事を慕ってくれる奴はいる。そしてそう言うやつらばかり。
俺は、どこへ行ったらいい。
俺の行き場所だけがない。
せめて、餌になれれば。

ギアッチョの手が伸びて、その動きに目を細める。
殴られる…。
痛みを想像して一瞬強張る。
痛みは嫌いじゃない、自分がそこにいるような気がするから。
でも身体は竦む。
俺は臆病なのか。
ギアッチョの薄笑いが目に張りつく。
その腕は俺を通りすぎた。
ギアッチョが伏目がちに俺から目をそらして。自分の眼鏡に手をかける。
外された眼鏡の置かれる小さな音。
俺を見ない瞳。
何がしたいんだろう。わからなかった。
だから怖かった。
でもイイ。それでイイ。
不意の強い力で押し倒される。
同時に髪の毛が引き上げられる。
「…うッ…!」
強い力で引き上げられ、喉元が露わになる。
殺される。一番弱い部分をさらけ出して、俺は服従の意味を知る。
怖い。
苦しい。俺はこれでイイ。これでイイと思うからこの人に抱かれる。
この人だけが、俺を、俺を壊してくれる。
傷に触れずに傷を引き裂いてくれる。もっとアナタの傷で埋まってみたい。
そんな事を考えている自分に腹が立つ。
俺はこんなに弱くない。
何をしてるんだろう、嫌気がさす。
俺はこんなに情けない人間じゃない…情けなくなんか…情けねぇよ…クソ…
ギアッチョの声に服従する自分がいる。
いつも先頭に立ってきた。
すべてが俺にのしかかった。
この人は俺にそう言うものを求めない。
「苦しいか…サーレー?」
「…は、い…」
「そうか…」
引かれた喉で声にならない声を振り絞る。
閉じた瞼の裏に冷たい闇が溶ける。
疑問に感じて目を開く。だが、闇。明かりを消したのは何故だろう。
わからないから怖い。
だからこの頬に触れる感触さえも怖い。
何故、何故俺の頬をこんなに柔らかく撫でるのだろう。
この人は誰だろう。
俺は、誰に抱かれているのだろう。
声を下さい。
「ギアッチョ…さん…?」
問いかける。しかし答えはない。
脅える自分がいる。それが恥ずかしくて冷静になろうとする。
頬を撫でる指が、俺の唇を塞ぐように撫でた。
俺の髪を揺らしたのは吐息。
聞き覚えのある呼吸の音。
小さな歯軋り。
不安が弱まる。唇をなぞる感触が脊髄に走る。
冷静になろうとした自分を、また押し返す。
もっと壊してください。もっと傷を下さい。
俺がもっと堕落するように。そうすれば俺は楽になれるんです。
耳元を撫でる感触。それから髪へ。
すくように撫でられる。髪から首元、胸を確かめるようにゆっくりとなぞられる。
意識を持って行かれそうな。自分の吐息に足元をすくわれる。
何故…何故こんな感覚が…俺に与えられるのだろう…
駄目なんです…なんでそんなに優しいんですかあったかいんですか?
隠れていた俺の傷が見えてしまう…
もっと耐える事を!俺に刻んで…じゃないと…俺は…
震える指で触れかえす。
俺は何してるんだろう。
ギアッチョの衣服が触れ。その先にある身体を確かめる。
俺は何してるんだろう。歯を食いしばる。けど息が乱れる。
駄目だ、こんなことしちゃ…
「こんな…仕方…。」
「……嫌か…」
低い声。だが、戸惑いを含む人間的な声。
そんな声で俺に話しかけちゃ駄目…です…
「俺なんかには…勿体無いです…」
「何…?」
「もっと、大切な人にしてあげてください…情けなら、俺は…」
突然の首への力。
息を止められ、首に大きな力がかかる。
締められた息が小さく音を立てる。
頭が熱くなる。そう。
そう、優しくしないでこうして苦しめてください。
じゃないと俺は溢れてしまうから。
「苦しいか…」
遠い意識に声が聞こえる。
冷たい声。
冷静なギアッチョの声。
それに、答えるべく意識を振り絞る。
苦しいです。
苦しいです…
本当に、苦しくて。
もっと苦しいことを俺に教えてください。
俺の苦しみなんかどうでも良くなっちまうくらいに!
何度も問われる。
何度も返す。
確かめられる。
大丈夫。俺は、大丈夫…
苦しいか?問いは続く。答えながら、薄れた意識に身をゆだねそうになった。
「俺もだ…」
聞こえたのは、誰の声。
なんと言った…何度もその声を繰り返してみる。
耳を疑う。
手を放されたことに気づいて、高く吸いこむ息と
勝手にせきこむ身体にその疑問はかき消された。
俺を見ている。
俺は見られている。
首元に手が伸びる。
脅える俺。脅える事の出来る俺。
首筋に当たった指が、そっと傷をなぞるように。
ち、違う…
そんなところに傷なんてない。
俺の傷は見えちゃいけない。
身体中のいたるところにある微かな傷を撫でられる。
ゆっくりと剥がされて行く。
こんな汚い物…アンタは見てはいけない…。
お願いだから剥がさないで…
口付けられて落ちそうになる。
唇の感触が痛いほどに気持ちがイイ。
鋭くなって行く感覚に、羞恥を覚える。
身体中を唇でなぞられる、なぞってくれる。
息が乱れる。
恥ずかしいから…情けないから
この身体。燃えて消えてしまえばイイとさえ…!
柔らかく、血の昇った其処に口付けられると、
どうしようもない羞恥と快感に身が跳ねる。
「は…ぁ…ッ!」
駄目です。嫌です。もうやめてください。
駄目なんです、怖いんです、俺は、弱くなってしまう!
手のひらの感触が足を伝ってよみがえる。
流されそうな快感。なんで、なんで…
「続けて…いいか?」
聞かないでくれ。そんな事聞かないでくれ。
弱い俺はどんどん剥がされてしまう。
どんどん恥ずかしくなる。
汚い。俺はこんなにも汚い。求めるなんて、こんな俺は腐ってしまえば…
「…して、ください…。」
死んでしまいたい。
懇願した自分を殺してしまいたい。
恥ずかしい。こんな恥ずかしい目に合わせてこの人はなんで俺を抱くんだろう。
同じように口付けられ、身体が反りかえる。
柔らかい愛撫。
軽く含まれて舌でなぞられる。
「…ア…ッ」
駄目。
駄目…
優しくしないで…!!
大丈夫、俺はまだ冷静だから…っ…
「俺は…大丈夫ですから…気なんか」
言える、これくらいの事は、微かな笑顔で言うことが出来る。
戻って来い、俺。
「サーレー」
「…はい」
「感覚だけに…なれ」
「…はい…」
そう、これでイイ。この人に。この人は俺の支配者で…
「俺は…」
「ハイ…」
「俺はお前を汚すだけなのか」
…………!


身体が震える。歯の根が合わない。
なにを言われた?なんで俺はこんなに震えている?なんで俺の息は上がってる?!
落ちつけ、俺は何も怖くない、何も言われていない!
「俺は…それだけの存在で…」
やめろ、言うな。
言わないでくれ。
優しく触れたりしないでくれ。俺はこんなにも冷静だった…はずなのに…!
抱くな!俺をそんな風に…
「どうしていいのか…わからねぇ…。お前が、壊れちまう…」
荒い息が俺の限界を知らせる。振り絞れ。
「俺は、大丈夫ですから。だから…本当に気なんか…」
「駄目だ。違う!」
強く否定される。
逆らえない力。大きくてあったかいでっかい力。
「俺は欲望じゃねぇ…」
この人を、俺は抱かなければ。
俺が包んでやらなければ。
俺が溶かさなければ、この人の苦しみを。
汚れてるなんて気づかれてはいけない。
出来るかぎり優しく抱きしめる。
落ちつけ。俺はこの人に抱かれる権利を持てる人間じゃない。
せめて安息を…。

…!
その腕に抱きしめられる。今までにない柔らかさで。
俺に…そんな権利は…ない…
苦し紛れに顔をそらす。
傷つかないように、小さく拒む。でも放されない身体。
そして壊される俺の精神。
「いいんだ…お前は抱かれてていいんだ」
溶けそうになる。どうして、こんな感覚を俺に与えてくれるんだ…
一生懸命抱いてたのに。
抱きしめるなんて…反則だ…
…アンタに落ちても…いいんですか…こんな汚れた野郎が…。
勝手に落ちる涙。
勝手にしろ、勝手に、本当に勝手だ、俺の身体は。
なぜ泣く。何故暖かい?何故気持ちがいい?何故安心する?
どうして、抱いてくれる?ゴミなんかほっておけば…
「どうして…」
何でこの人は…俺を知ってる?
「どうして俺が、俺が…アンタは…分かるんですか…ッ」
分かってる、この人は、絶対俺に気づいてる!
気づかれないように隠していたのに。見えないはずなのに。
なんでバレタ?誰にも気づかれなかった。
見られても見ないフリをされていけたのに。
ギアッチョの頬に、俺の涙が触れてしまう。
何もかも剥がされてしまった。
もう俺は守れない、自分を。そして誰も。
「わからねぇよ…だから…お前を探して…こうして…」
弱弱しく抱きしめられる。
俺の傷に触れないように…この人の精一杯の…
剥ぎ取られて残った俺の身体は行くところを失う。
どこへいったらイイ?どこにいたらイイ?誰が抱きとめてくれる?
抱かれていなければ…消えてしまう…
「ここに…います。俺はここにいます…ッ!」
自分の悲鳴、もう止められない。
抱いてください。
汚れた俺を許してください…。
唇に一瞬だけ触れるようなキス。
口元に息がかかる。
「快楽を…情けないものと思いたくない…
 大事なもんに。あったけぇもんにしたい…一緒に来い…」
ギアッチョの髪を触る。
触りたくなったから、触る。
自分を癒すために触る、この人はそれを許した。
それを許されて、それにすがる自分がいる。
触れるだけで気持ちがイイ。
この人もそうだったら…俺は…物凄く嬉しいのに。

抱きしめられて、そして与えられる。
触れた部分が熱くなる。
自分に入ってくる熱い感覚。
それがただの愛撫だと言う事に気づく。
セックスなんて…拷問と一緒だと思っていたのに。
深く入られて溶かされる。
この人に触れている。俺に触れている。俺が触れている。
一生懸命それを感じ取ろうとして。目を閉じる。
一瞬開いた目にうつったのはただの闇だったから。
俺達を隠す闇。
剥がされていたのは俺だけじゃなかったのかもしれない。
恥を溶かす。当然の行為。
なんでもない、当たり前の、触りたい。触れたい。そんな気持ち。
ギアッチョの動きに煽られる。
駆け上がる快感さえも。気持ちがイイ。

許されたのは俺だけじゃなく。

今ごろ気がついて。

情けなくって、笑う。

アンタを汚れにしてたのは俺で。

それは俺の間違いで。



恥ずかしいから秘密だ。
そう言いあった。
だって確かに照れくさい。
俺達はこんなに優しく抱き合った。
こんな事誰にも言えるものか。
汚すのは俺じゃなく、汚れた目だ。
俺は守る。
アンタのゆっくりとした鼓動を。
音と音が重なる。
罪を罪にしたのは人間だ。
そんな理屈をアンタがこねる。



それじゃ、幸を決めるのも人間ですね。
俺がそう言うと、そうだな、と言って俺の唇を撫でた。
「ごめんなさい…俺…とめられなかった…でもアンタが欲しくて…」
そこまで言うと、あの感覚がよみがえってくる。
俺の中にはまだ自分を許せない自分がいる。
抱かれる。またもう一度。

「なぁ。俺が許してやるから。ここにいろ。」
また許される。
勝手に許される。
この人はいつもこうだ、だから面白い。だから気持ちがイイ。
だから、俺が剥がされちゃうんだ。勝手な人だ。本当に…
「でも、恥ずかしいな。」
「いいえ…気持ちイイです…」
勝手に口から言葉が漏れた。
物凄く気持ちが良かったから。
物凄くあったかかったから。
馬鹿。
誰にも見せない顔で。
誰にもいわない事を言う。



だから、誰にもわからない。



俺は秘密の意味を始めて知った。



あれもこれもみんなすべて秘密だ。
それが俺達の関係で。それが気持ちがイイから秘密だ。




泣かせてくれて…ありがとう




でも…これはアンタにも秘密…

FIN