「う〜みぃ〜」
俺の横でごねるヤツがいる。
確かに今日は天気がイイ。しかし突然海に行きたい、は、ないだろう。
バイクのメンテナンスもしていないし、と理由をつけるが、
どうあっても行きたいらしい。
「なんでそんなに行きたいんだイルーゾォ?」
「…海がな、俺を呼んでんだよ」
がっくり。疲れたような、可笑しいような。思わず苦笑する。
今日は珍しく朝早く目がさめた。
だから、ちょっと外に出てみたら、空を見上げているイルーゾォが居たんだ。
なにをしている?と聞くと。
「海の代わりに空見てんだ…でも海じゃねぇな」
海なら2時間で着く。
そう俺が言うと、目をキラキラさせて来たという訳。
まぁ俺がその気にさせてしまったんだから、仕方あるまい。
ため息を一つつくと、イルーゾォをそこで待たせて、キーを取りに戻る。

山道を超えて、軽快なエンジン音が響き渡る。
調子が良いようだ。二人乗っても問題なく気持ちよく滑れる。
いつも風を切って冷えるくらいの脇腹に、イルーゾォの腕がある。
始終右を向いたり、左を向いたりしているのが分かった。
イルーゾォが右を向くと、右が気になる。
邪魔な髪を風でどけながら、同じ方向をちらりと見る。
イルーゾォの眼に映ったのはどれだったんだろう。
どれがこいつを楽しませているんだろう。
そんなことを気にしている自分が居る。

いい加減バイクにも乗り飽きてくる頃。
風が湿気を含んで頬を冷やす。
山道から広い場所に出る道路が見えた。
イルーゾォがそれに気づいて俺の後ろからチョコっと顔を出す。
「うわ!」
嬌声が後ろであがる。
楽しそうなその声に、嬉しそうなその声に。俺の胸までもがワクワクする。
付き合わされて海に来たはずなのに。
広い道路の向こうに、ちらりとだけ見える海。
その付近に向かって、勘だけでバイクをすべらせる。
広い海。
天気が良いせいか、真っ青に揺らぐ海。
引きこまれそうな。ある意味巨大な恐怖であるそれに、おびえる自分が居る。
シーズンオフの海水浴場。
早い時間のためか、休日でないせいか、人が殆ど見られない。
砂浜より一段上の防波堤にバイクを止め、腰を休める。
防波堤のコンクリートの上に俺は腰掛けた。
バイクが止まった途端に飛び降りたイルーゾォが、波打ち際まで速攻で走って行く。
犬だな、アレは。
「メローネ!気持ちいーぞぉ〜!」
「ああ。」
向こうから手を振ってはしゃぐ姿にこっちが照れる。
イルーゾォはいつもこうなんだ。
なんでも楽しんでしまう。それが子供だと言うんだ。
と言いつつ、はしゃげるその心に嫉妬しないでもない。
疲れていたのか、俺はちょっとだけ眠くなった。
防波堤の上に横になる。
青くて広い空。
何もなくて、自分一人だけ取り残されてしまったような…
空白を感じながら。うとうととする。
不意にその空白を埋める笑顔。
「寝んの?んじゃ俺も。」
俺の頭のほうに、対になるようにイルーゾォが寝そべる。
そのまま転がって、うつ伏せで俺を覗きこむ。
「なぁ。メローネってさ」
「なんだ?」
「顔に似合わず歳だよな〜」
「…おちょくるな…ガキと比べられても困る」
「ガキってのはなんなんだよ、歳殆どかわらねぇじゃんかー」
ペシ。
塩水で濡れた手のひらで、額を叩かれる。
微かに香る海の匂い。
その手を掴んで、そっと舐める。
「海だな」
「当たり前じゃん」
「海に入ったお前の味がする」
ごち。
どうも俺はこの手の冗談がキツイらしい。
イルーゾォにげんこつで殴られて、少々反省する。
そのまま俺を置いて、イルーゾォが消えた。
また俺は一人、広い空に取り残される。
広すぎる空。巨大なそれに飲みこまれそうになる。
イルーゾォが居たときは大丈夫だったのに。
恐怖に目を閉じる。
そのまま、疲れで押し流される。
揺り起こされて、ふと目を開ける。
覗きこむイルーゾォに、安心する。
「海入って遊ぼーぜ!」
「俺はイイ…ちょっと疲れた」
「つまんねぇこと言うなよ〜ちょっとだけ、な?」
「濡れたくないからな…」
「てやっ」
どこから持ってきていたのか、
小さな貝殻に汲んできていたらしい海の水を引っ掛けられる。
ぱしゃん。
顔にかかったそれを舌で舐める。イルーゾォの匂いのしない海の香り。
人の匂いのしない海ってのは案外寂しいものだな…などと…。
「ちょっと濡れたら全部濡れても一緒だろ?って、駄目?」
ニヤニヤしているイルーゾォを、ガバッと起きて掴み上げる。
「うわあ!」
俺の突然の反撃に驚いたのか、肩の上に担ぎ上げられてばたばたともがく。
「まったく。全くお前は。ッと、この辺は浅瀬が多いんだな」
俺が海に向かって歩き始めたのに納得したのか、俺の上で暴れるのをやめる。
俺が歩くと、俺の肩の上でイルーゾォがぽこぽこ動く。
大人しく担がれているイルーゾォの尻をぺチンと叩くと、
背中を殴られると言う反撃を食らってしまった。少々痛い。

そのままイルーゾォの遊びに付き合う羽目になる。
水飛沫が飛ぶ。何か見つけて追いかける。
俺が回りこんで、イルーゾォが追いかける。
足元をかすめて魚が通って行く。微かに当たった魚の身体の弾力に感心する。
そんでもって逃がしたと怒られる。
そのイルーゾォに水をかけてやる。
動き回る波の感触が俺を流す。
イルーゾォに引き戻されて、また流される。
コイツは海の…一部なのかと一瞬疑う。
そうなのかもしれない。
そうなのかも、しれないな。

薄暗くなった景色に、ぐったりと疲れて防波堤に腰掛ける。
ぺたぺたと、はだしの足がかがんで座っている俺の目に入ってきた。
「疲れた?ゴメンな。なんかはしゃいじゃって…」
「ああ…」
「どっか泊まってく?」
「いや、帰るぞ…」
特に明日、用があるわけでもないが。
「無理だよ、そんな疲れてたら…俺が運転しよっか?」
「大型の免許があったとは初耳だな」
「持ってねぇよそんなモン」
うつらうつら。
イルーゾォの声が遠くで聞こえる。
俺の顔を覗きこむイルーゾォ。
頭がぼんやりして、すぐにでも眠ってしまいそうだ。
途切れがちな意識でイルーゾォに何か言おうとする…
意識はしてた…。
意識をしていたから、微かに唇を開いたんだろうと、そう俺は自分を解釈する。
イルーゾォの温かい唇。
そっと押しつけられて、体が軽くなる。
今日は…帰るのをやめておくか…
海の匂いとイルーゾォの香りにほだされながら。

このまま、他人(ひと)の海に包まれるのも…悪くはない。


FIN